ナイキの批評記事を読んで

ナイキの批評記事を読んでみました。Twitterは読んでいません。日本に人種差別があるのか、諸外国と比べて日本の差別の度合いはどうなのか。というのが気になるところだと思います。日本に人種差別、そのほかの差別があるのは当然の事です。日本だけではなく、恐らくすべての国にそのようなことがあるものと思います。日本人同士にもあります。それを無いものとすることはできません。日本における人種差別は、外国で報道される差別的扱いに比べれば軽いものだ、無いと言っても良いのではないのか、と言う認識がある一方、わが村日本国になじもうとしない日本人らしきものは批判されて当然の事だ、とするもののように感じます。人種批判が有るのか無いのかと言えば、あるに決まっています。知的障害者を襲った事件も人種差別ではありませんが、人間差別、人格差別があるものと思います。人間にはそういう差別意識があって当たり前のことだと私は思います。これはある種の危険予知のようなものと思います。多数の中に異質なものがあると危険視したり、排除する方向に向かう傾向があると思います。このことがあたかも良くないことだとするのは、議論の進展が無くなるように思います。有るものは在るとして、さてそれからどうするのかを始めなくてはいけないように思います。人間は他の動物に比べれば、弱いものです。だから集団になり他の動物から身を守り、また身内の集団にも同調性を求めます。見た目の異質さは特に目につきます。本人の意思とは関係なく差別の対象になります。日本人同士の場合も当てはまります。人間は考える葦です。差別意識があるものとして、さてそれから自分はどうするのかが大切なことだと思います。これから日本の人口は少なくなっていきます。また外国からの人達が多く日本で働くようになっていき、それこそ純粋な日本人というものが意味をなさなくなっていくものと想像されます。日本人のお名前にも示されているように、今の日本人というものは、どの時代の日本人からを指すのでしょうか。それと少々ナイキのCMに踊らされ過ぎてはいないでしょうか。日本人は少し自傷的な傾向があると思いますが、恐らくCM制作者は、アメリカ的な発想を基に日本人観を作り上げ、あまつさえアメリカ的な感じの批評空間を日本にも当てはめてしまったように思います。大統領選挙の非難合戦を良しとしない日本人気質と、そこに両者の本質を見極めようとする気質の違いを、資本主義経済、自由主義経済が同一のものであるという判断基準で見誤ったのではないのかと思います。文化、慣習の違い。当事者意識の濃淡などはある意味加味していなかったのではないでしょうか。欧州の有名ブランドの企業が文化的な考慮なしに発言したために後で謝罪した事があったのに、人種差別をわざわざ問題提起したのだろうか。単に話題性を求めただけではないのか。インパクトを与えようとして作ったものの、見識不足が露呈しただけではないのか。私の感覚でいえば、CMは微妙な問題は避けて作られるものと思います。それをあえて犯したとするならば、大企業の驕りのようにさえ思えます。本当の意味で問題提起をしたとするならば、今後の推移も見守らなければならないと思います。日本国には差別が在ります。態度で示す、目に見える形での差別。態度には出さない、わざわざ教えようとはしない、見えない形での差別。いろいろな差別。言わずもがなのところもあります。ひとくくりにして差別が良くないとはいえるでしょうか。一つの主義主張を金科玉条の如く守るよりも、もっと広い見識を求めたいと思います。