衣食足りて礼節を知る

衣食足りて礼節を知る、という言葉があります。豊かになれば自然と礼節を重んじるということだと思います。私の子供のころは、まだ継ぎはぎの服を着ている子供がいました。数日同じ服を着て登校するものもいました。時々その継ぎはぎや汗くさい匂いを指摘する子供もいました。しかし多くの子供はそれをかばいあうかのように、何も言わなかったり、からかうものをたしなめたりしたものです。衣については、人はまず見た眼を大事に思うようです。出かけるときは、きれいな服を着たり、髪を整えたりするものです。最近は整形、矯正歯科をする人も見かけます。他人を意識したり、自分のコンプレックスを克服するためには良いと思います。豊かになるにつれ食事にもめずらしいものが載るようになりました。今ではバナナは高級品とは呼べませんが、今の高級マスクメロンのような感じでした。食卓には季節の野菜はありましたが、季節外れのものは食べていませんでした。それで季節感を感じることもありました。ケーキなどもクリスマスの時ぐらいなものです。町のパン屋さんケーキ屋さんなど無く、珍しかったものです。住については、田舎だったからか割とありました。農家の人が多かったせいもあるかと思います。それでもまだ貸家住まいの人も多くいました。結婚して一つの目標に自宅を建てるということがあると思います。安定した職業につければ今は可能です。日本では自分が努力すれば何とか豊かに暮らしていける国になったと思います。世界情勢を鑑みれば簡単ではありませんが、衣食住に困ることがそれほどありません。さて、衣食住足りて昔よりも礼節を重んじる国になったでしょうか。他人に対して思いやりを示しているでしょうか。甚だ怪しく思います。継ぎはぎの服を笑う子供を、教師はたしなめたものです。いじめもありましたが、それを庇う子供がいました。今は親こそがいじめに加わっている始末です。季節感なくありとあらゆる食材を手に入れることが出来る今、本当の味を知る機会がむしろ減っているようにさえ感じます。いろいろなものを混ぜ込んで美味しいと感じさせているようにさえ思えます。もちろん職人の味の追及を否定はしませんが、淡白なものを淡白のまま、濃厚なものを濃厚なまま味わい深くいただいているでしょうか。住宅にしてもそのローンの返済に四苦八苦しているように見えます。たかだか50年ももたない家に成り下がっています。日本人は職人気質があると思います。衣について、繊維、織り方、縫い方、デザイン、組み合わせなどに思いを馳せます。食についても素材、季節のもの、安全性、見た目など。住では使い勝手、耐久性、価値意識などが考えられます。それらに共通する意識として、相手を思いやる心が技術の研究、発展を促進していると思います。日本の技術の進歩はこの相手を感じる心があるからだと私は思います。もう少し工夫をすればもっと良いものができるのではないのか。喜んでもらえるのではないのか、という思いが発展につながっていると思います。若い人たちに技術の向上心があるかといえば,無いように見受けられます。どこに原因があるのでしょうか。衣食住を意職従に置き換えてみると、意、自己意識を主張しすぎて返って自己を見失ってしまっている。孔子でさえ50年かかって自己を形成しているのに20年で凝り固まっている。職、本当にしたい、向いている職業についていない。賃金のせいもあると思いますが、自分が夢中になれる職業ではなく、お金のために自己犠牲になっている。従、長いものに巻かれろ、の構造に慣れきってしまっている。現在の状況が永遠に続くように思い込んでいる。歴史を見ても平和な状況が永遠に続くわけもなく、また続けたいならばその努力をしなければならない事を忘れかけている。日本は豊かな国になりました。その実他人を騙してお金に執着する輩が大手を振ってまかり通っています。自分の事は省みず他人にばかり責任を押し付けるものもいます。自己形成は20年。自宅は30年、100年安心の年金、全てがお題目にすぎないように思われます。しかしこうやって歴史は繰り返してきたのかもしれません。今更今後を憂いても仕方がないのかもしれません。誰かが奮起することを期待するものです。