オウムに思う

オウム事件を知っていますか。今の若者は事件は知っていても実感は無いかも知れません。私などは浅間山山荘事件と同じく生々しいものです。それは戦争を体験した者が戦争の悲惨さを語るようなものと同じかも知れません。宗教は人間を幸福に導くものでしょうか。私は多少疑問に思います。昔、織田信長比叡山を焼き討ちしました。この言葉だけを受けると、仏教に対して大変なことをしたと思いますが、その理由を考えますとそう有りなむと思います。またキリスト教に対する迫害も宗教そのものよりもキリスト教を隠れ蓑にした侵略政策に危機を感じたものでは無かったかと思います。そういう危惧がなくなってもやり続けたのは少し異常で、自分達の政治利用に用いたものと思います。よく政教分離と言いますが、これは政治と宗教を分離するという意味では原則有りません。キリスト教の国の大統領にしろ元首にしろ就任式にはバイブルに手をおいて宣誓します。宗教では無くキリスト教各会派における教義に偏らず政治を行いましょう、と言うことであると思います。日本では政治と宗教そのものを分離すると解釈されていますが少しいきすぎていると思います。政治に宗教色をなくそうとしてかえって変なふうになってしまっている感が有ります。戦前の宗教色の反発があるのかも知れません。神道にしろ仏教にしろキリスト教にしろもうそろそろ冷静に宗教を眺めても良い頃では無いでしょうか。眺めるのは良いとしてもそれを利用しょうという輩は昔も今も相変わらずいます。その一つがオウムでは無かったかと思います。人は強い人もいれば弱い人もいます。寄らば大樹の陰では有りませんが、寄り添って出世を望む者も多くいます。そうすることが世間智であるかのごとく嫌々ながらでも従うよう振る舞い、また従わせるようにしょうとします。会社、クラブ、組織、そして宗教までもその一員に成り下がってきています。大木に巻き付いて日の光を浴びようとするカズラのように思われます。最後は巻き付いて本体を倒してしまいます。佛教は本来そういう因縁を断ち切ろうとする宗教だと思います。断ち切ろうとして断ち切れない葛藤を救う宗教だと思います。利用する者される者があり、利用される者から利用する者に代わったら、今までの恨みを晴らすかのごとく振る舞う者に変わってしまう。これは地位の逆転でも起こります。会社組織、世間体、等々。昔から今に至るまで宗教そのものよりも、その組織を媒体として君臨しようとするもの、組織を利用しようとするものがいます。清廉潔白な宗教者なはずのものがその権力に染まっていきます。人は弱い者です。甘い蜜をなめればいつまでもなめたいと思い、甘い蜜で誘われればついて行きます。良薬口に苦しと分かっていても、いつまでも苦いものは次第に離れていってしまいます。イスラム教で戦争が起こっていますが、本当に宗教対立でしょうか。経済格差、人権、グローバル化と自国文化の対立では無いのかと思います。それらのよりどころが各教義の宗教だと思います。ISとオウムと何処が違うのでしょうか。イスラム教とユダヤ教はどこが問題でしょうか。キリスト教はどうでしょうか。同じ教えを発展させてきた宗教です。キリスト教、佛教と宗教には色々な教えがあります。その中で共通する教えがあります。その一つが、殺してはならない、と言うものです。もしその言葉に反する事を発する宗教まがいのものがあれば、間違いなく邪教です。人が人としてあるのは理性があるからだ、と思います。しかし理性だけでは宗教は語れません。語れないからと言って理性を捨ててはいけません。語れないところを語ろうとする理性を持つべきだと思います。オウムに走ったような人達は今後も現れると思います。ことの善し悪しは時、場所により変わることがあります。その語れない善悪を語ろうとすることが大事では無いかと思います。