日本は何処へ

石破政権は、中華思想にハマってしまったようです。米国を忘れてしまった感があります。第二次世界大戦の事を忘れたのか、それともそれに対抗しようとでも思っているのか、危ない橋を渡ろうとしています。米国が手に届く距離の経済大国とでも思っていないだろうか?。米国が本気を出せば、日本の数十倍の国力があるのを分かっているのだろうか。良い悪いは別にして世界は米国中心に回っているのであって、中国ではない。その証拠に、世界の通貨は米国で持っている。昔の議員は、わが町わが故郷に恩恵をもたらすものが多かったが、今は我が企業、我が仲間に恩恵をもたらそうとする輩が横行している。日本国の事など利用対象にはなっても、守ろうとする気がない。こういうのは、グローバル化のなれの果てのように感ずる。人は、大人になるにつれ何かに頼ろうとする。頼っていないと豪語する人でも、何かを芯に持とうとする。そうしないと自分の存在を危うく感じ、自分は何を基準に判断してよいのか分からなくなる。基準のアヤフヤナものは、道徳、倫理観の欠如は、オレオレ詐欺、女性を騙しても反省の気配もない。自分が無いのだから他人も無い。会社勤めの者は、会社の方針、考えが基準になる。社会生活を営む上では、無難な選択である。ここに強力な労働組合がある場合、この労働組合に染まるとすべてが変わる。基準が労働組合、ひいては社会共産主義にまで突き進むことになる。発言が強硬であればあるほど組合、社会共産党は守ってくれるかも知れない。自分の人生はこれだと勘違いをしてしまう。これを間違いだと他人が訂正することはもはやできない。何故ならその個人が崩壊する危険があるから。人間の道徳倫理を促すものに、宗教がある。しかし今はこの宗教こそが問題になっている。本来わが宗教は他宗教とは争わず、民族の繁栄を促すものだ、などと言い訳をする。わが民族に、我が国家に仇名すものは滅ばしても構わない、という考えが裏に見える。私は主義主張、資本主義、社会主義共産主義も一種の宗教である、と思っている。人々に幸福をもたらし、社会秩序を与え、もって平和を望む姿は宗教そのもののようである。神さえも作り出し、独裁者という大統領、国家主席を持ちあげ、それらの号令の下に民衆を従わせる行為は、もはや野蛮人と呼ぶ方が妥当なように感じる。大人になればなるほど、何かを持たなければやっていけない。何を一番にするのか。家族、友人、会社、社会などは無難な選択である。引きこもり、自殺は、自分は何を基準にすればよいのか、何を選択すればよいのか、が見つからない人たちではないのかと思う。石破政権が中国共産党に寄り添うのも選択肢の一つではあるが、確実に日本国民を不幸にしている。米国が岸田政権時に行った暴挙もひどいものであったが、それ以上のものを失う事が目に見えている。米国はそれを許さない。また中国も許さない。根本原因はむしろ日本にある。日本は主義主張を声高に叫ぶものを嫌う。宗教においても強制されるものを嫌う。何故なら、八百万の、多神教の精神があるから。多くの神がいるなら、多くの意見があって当たり前。何も一つにする必要はない、という考えがどこかにあると思う。キリスト教イスラム教、仏教にも他宗教を認める考えがあると思うが、今は排除の考えしかないように見える。資本主義は共産主義を認めない。独裁者は分離独立を認めない。どちらか一方しか認めないグローバリズム。さて日本は鎖国政策でもした方が良いように思えてきた。