総裁選、夫婦別姓問題に思う

自民党総裁選が行われています。小泉、石破、高市さんが有力のように言われています。小泉さんは、問題意識が古いように言われているように思います。夫婦別姓問題では、結婚後旧姓を使っても社会的には何の問題もない、制度になっています。夫婦別姓問題は実務的にはすべてクリアーになっているように思われます。むしろ子どもの名前をどうするのか、という事の方が問題になってきているように思われます。左派勢力による問題拡大路線に乗ったような発言は違和感があるように感じます。禅宗の考案にも名前に捕らわれる話が在ったように、囚われすぎたらダメだと思います。中国では、嫁(婿)に入っても名前が変わらないようです。但し、いつまでもよそ者の家の者のような扱いのようです。ほかの国では、祖父、クリスチャンネームなどを大事にしている国もあるようです。日本における名前は、家を表すのが一般的だと思います。家に縛られる嫁(婿)が、戦後分家して独立し、自由を勝ち取ったかのような状態を思い浮かべているのではないのかと想像します。自由を得た事、それによる苦労も考え合わせると功罪あるように見受けられます。やはり一家独立というのは苦労も多いものです。それでもなお縛られないという自由は大きいものがあるのように思います。名前においても個人を失うような不自由さを感じているのかも知れません。名前が変わるという不自由さを旧姓使用でも構わない、という自由さで許可している国はどれほどあるのだろうか。世界の国は、個人の存在は認めてはいるが、個々の存在は認めていない。個人の意見行動は尊重するが、個々人の意見行動には、代表を表す名前を付ける。残念ながら集まれば何らかの名前を付けざるを得ない。その名前がバラバラでは話にならない。名前だけが問題ならば、旧姓を使えばよいし、極端に言えば結婚しなくてもよい選択もある。サザエさんの家族は、父と娘で名前が違う。だから家族間では名字で呼びあい、社会的には姓で呼び合う。どちらが良いとか悪いとかの話ではないように思います。名前というのは生きている時の区別を表す呼び名にすぎない。セミは虫であり、クマゼミだというのにすぎない。仏教では戒名という名前まで付ける。死んでからは文句も付けられない。今では家名を大事に思っているのは、田舎の地主か、稀な名前の持ち主ぐらいなものだろう。赤ちゃん、仏さんの名前には家族の思いがついていると見た方が良いと思います。それは名前を付ける、変わるというよりも、そうする行為はその国の文化的行為と見た方が良いのではないのか、と思います。それぞれの国には、それぞれの文化があり、それぞれに合ったやり方考え方を尊重するのが、真のグローバリズムではないのかと思います。石破さんは何がしたいのか分からない。岸田さんと同じかもしれない。高市さんは、理路整然と述べられて意見を示しているようです。政治勢力図の関係もあるのでしょうが、どれだけ懐の広さを持っているのか分からない。中国が何故台湾に固執するのか。経済的理由、地政学的な理由、いろいろあるとは思いますが、私は台湾人が漢民族だから、と一つには思います。中国人は漢民族こそが中華思想の本躯であるように思っているのではないのか、と思います。中国の歴史を見ると漢民族の歴史もありますが、周辺国人による統治もあります。台湾人はある意味正当な後継者足りうる存在なのだと思います。その正当性を凌駕したい気持ちがあるのではないのか、と想像します。私の勝手な推察です。中国世界は皇帝官僚と庶民の二分化を形どっており、それ以外を認めない世界観を持っているようです。皇帝に物申すのは、相手が皇帝であらねばならないのであって、部下が意見を言っても聞かない。法律がどうのこうのと言っても無駄なことだと知るべきだと思います。日本人が危険な目に逢っています。日本の首相ははっきりとものを言うべき時期だと思います。