平昌オリンピックに思う

平昌オリンピックが始まりました。高梨選手は銅メダルを取りました。良かったと思います。高木選手に言ったものだったと思いますが、解説で清水元選手が金は歓び、銀は悔しさ、銅は安堵の感情が有ります。と言っていたのは感慨深いものが有ります。銀にしろ銅にしろ良かったと思います。解説はメダリストの4年間を人知れずの苦労を交えて放送されていました。私などは4年間も自分を信じるだけで一つのことに打ち込めません。メダルを取れなかった人達も同じような労苦をしてきたものと思います。子供の頃から天才と呼ばれていても、呼ばれたからこそ挫折が有ったかも知れませんが、人一倍の努力が実を結んで良かったと思います。勿論メダル者だけが偉いと言うつもりはありませんが、やはりその立場に立ったものだけが味わえる、分かるものが有ると思います。これはスポーツに限りません。仕事での立場、技術の上達、世間の注目度など一つ上の立ち位置に立ったものが感じる、理解できるものがあると思います。また別にヒーローだけが味わえるものではなく、それを支えてきたものたちも同じ様に見える世界が有ります。支えてきたもの達にも金銀銅の感情が渦巻くかも知れませんが、自分を選手に投影した達成感の感情のほうが強くでるかも知れません。自分がどちらの立場に向いているのか知っておくのも大事かも知れません。下世話では会社で社長の下働きをずっとしてきた、他人に先駆けて仕事をこなしてきた、先見の明がある、など他人任せ、勘違い、のもの達が社長になりたがっているようです。社長には社長の視界が有ります。たとえ大会社の部長でも中小会社の社長とは見える世界が違います。それが良いとか悪いとかではなく、自分がどちらの立場がより充実感を得られるかによると思います。世界という広い世の中に互して行くには並大抵の努力ではこれから先足りないように思われます。オリンピックに出場されている皆さんには申し訳ありませんが、政治的な思惑が有るのも事実です。もしオリンピックに純粋を求めるなら、圧倒的な感動だと思います。感情を呼び覚ます演技、試技に有ると思います。私はその働きに感応できるよう努めたいと思います。まだオリンピックは続いています。メダルを期待します。。