長谷川幸洋さんのYOUTUBEを見て思う事

長谷川幸洋さんのYOUTUBEを見ました。左翼、リベラル、保守というテーマでお話しされていました。残念ながらYOUTUBEの時間帯では、リベラルの部分しか聞けませんでした。ニコナマで続きは話されたものと思います。簡単に紹介すると、リベラルとは個人がまず在りき、から始まるそうです。個人、独立した個人、一個の抽象的な人間、を前提として存在させる、というものです。そこから社会とのつながりを考える。性別、人種別、地域別は考えることなしに個々の人間存在を考える。自由人という考えが生まれるのは、当然のように思います。若者にとって、自分を縛る社会組織、慣習、規範はリベラル人にとっては、邪魔なもの、改革しなければならないものになります。ともすれば相手を強制的にも改善しなくてはならないことになります。どこか極端な左翼右翼的な考えに近いものの考えだと思います。もう一点は幸せ感が一律であるという事です。先進国であれ、後進国であれ、同じ価値観を持っているはずだ、という事です。どんなに違った社会背景を持っているにしろ、どんなに違った生活意識を持っているにしろ、幸福感は同じだという事らしい。私からすれば暴論のように聞こえますが、自我が芽生え始める若者、社会的な規律に不満を持つ場面などで感じるやるせなさの時、リベラリズム、理想主義という甘言に浸るようです。社会からの理不尽な要求に対してそう考えるのも無理からぬことと思う場面もあります。しかしながら私などは、人それぞれ違うのは当たり前であり、社会背景が違えば価値観が違うのも当たり前である、それを皆同じととらえる方が不合理のように思います。同情する部分はあるにせよちょっと乱暴な考え方だと思います。アメリカが戦争を起こして来たのは民主党リベラル派の時が多いように思います。この価値観を他国に押し付け、自国の優位性を見せびらかして来たようにさえ見えます。これに追随している岸田政権も情けないと思います。こういう考え方は、リベラル左派、リベラル右派にもなります。だから私にとっては左派も右派も同じようなものと思います。ところで、人間は社会的な束縛から離れ一個の人間として存在するべきだ、という考えは、組織の中の自分という前提がある事になります。もともと一個の存在として自分がある場合どうなるのでしょうか。子供ながらに群れることをせず、自分の思うままに行動をし、親社会にそれ程面倒を掛けず、自分の事は自分で責任を感じる者は、どうでしょうか。リベラリストに対しては、理想主義者というよりも空想主義者のように思います。保守というのはリベラリズムの対局にあるようにも思います。社会背景を前提とし、そこに個々人が暮らす。個々人が集まって社会規範、価値観が生まれ、慣習という法律ができる。窮屈な面もあります。国際化が広がれば、違った社会意識がぶつかることもあると思います。そこを調整して共通認識が生まれグローバル化していくのが本来の道だと私は思います。個人を尊重すると同時に国家も尊重するという態度が大事です。戦争という火種は価値観の押し付け合いだと思います。その火種に経済困窮というものがかぶさった時が戦争勃発だと思います。火種はあちらこちらで見つかります。貧困化がまだそれほどではありません。中国不況、移民問題などで世界恐慌になったら戦争が起こるように思います。キリスト教イスラム教のような一神教徒だからこのような独りよがりの考えを持ち続けるのでしょうか。キリスト教イスラム教の本来の姿を示しているとは思えませんが。