警官襲撃事件に思う

警察官の襲撃事件がまたありました。翌日には未遂もありました。なぜ警察官を襲ったのでしょうか。若者の考えの中に未来を描くということが無くなってきているように思います。理想の未来像が見えなくなってきているように思います。もしかしたら現実の生々しい未来像が見えているのかも知れません。警察官を襲えば将来どうなるかを考えなかった訳でも無いと思いますが、その事よりも現在の行動を優先させてしまった様な気がします。私は犯罪を犯さない理由に、他人に危害を負わせることを良しとしない、自分の将来に負担をかけない、周りに迷惑を掛けない、等の理由があると思います。これらは子供の頃から悪さをすれば言われ続けてきたと思います。最近この提言が薄れてきているのでは無いでしょうか。周りに迷惑を掛けない、と言いつつ隣近所とトラブルを起こし、自己主張ばかりを繰り返す。他人に直接危害を負わせはしないが、陰で悪口を言い思いやりの気持ちも無い。自分に降りかかる火の粉は振り払うが、関係ない場合見て見ぬふりをする。自分の将来にプラスの場合積極的に関わるが、マイナスの場合はさっさと離れる。もしどこかでだれか人生のレールを踏み外した時、普段はおとなしくしているが、他人との関わりを持たず、自分に都合の良い場合はそのままにして、関係ない場合は知らないふりをし、不都合が降りかかると逆ギレする、そういう人がいないだろうか。私は将来に対し希望あふれる未来を想像して欲しいと思います。何にでもなれるスーパーマン、何でも出せるドラえもん、みんなを守るヒーロー、子供の頃の夢は大事です。それが開発の原点では無いでしょうか。必要は発明の母です。夢と現実を結びつけることが大人の仕事ではないでしょうか。若者は夢を見ているのだろうか。現実ばかりを見、押しつぶされ、現実世界にとらわれ離れられないようになってはいないだろうか。ゲームのキャラクターは何度でも生き返りますが、人間は死んだら終わりです。相手も自分も他人も。復活はしません。天国とか地獄とか言いますが、私はこの世こそが天国で有り地獄でもあると思います。天国にするか地獄にするかは結局自分次第です。人は一人称二人称三人称です。一人称は自分です。自分は、自分がと考えることです。自分に起こることは良いことも悪いことも自分が引き受けなくてはならないと思います。そうしてもう一人が生まれると二人称です。仲間意識、恋愛意識などが生まれます。自分と相手の相関関係を意識すると思います。その他は三人称です。自分、相手以外は他人です。この他人を何処まで他人とするかで人との付き合い方が決まります。昨日初めて会った人でも今日は相手の存在になることもあります。博愛主義者のようなことは無くても、他人では無く、相手人のような見方を持ってもらいたいと思います。自分を省みるのが自分で有り、自分を写すのが相手で有り、自分を示すのが他人かも知れません。よく子供に暴力を使わないで言葉で諭しましょう、などが有りますがどうでしょうか。私は言葉を理解する子は言葉で諭すのはよいと思いますが、言葉を理解できない子は親のしつけは必要だと思います。反論が沢山有りそうですが仕方がありません。暴力という言葉は、がみがみ怒鳴っても、かるく平手をしても暴力で、意識を失うようなことをしても暴力で、程度が曖昧のように感じます。暴力が常習化しては困りますが必要な事もあります。今の人達に感じることに、程度が判らない人が増えてきているのでは無いのかと思う事があります。何処まで殴ったら良いのか危ないのか。自分の気が済むまで殴らないと治まらないような気がします。相手を観るのでは無く自分の気持ちだけに集中し過ぎる。気がついたときには相手は悲惨な状況になっていた、など。これは言葉の暴力、しつけの暴力、権力の暴力など自分中心にしか物事を判断出来ない場合が多いと思います。自分と他人しか存在しないような関係に思われます。子供に暴力を使うのは良くない、という考えは理解しますが、残念ながら世の中はそう甘くありません。この現実に暴力を受けずに来た子供が耐えられるか心配です。子供同士のケンカ、柔道などの授業、クラブでのしごき、暴力に間違われる場面は多くあります。自分中心主義の親が何処まで許すのでしょうか。子供は何処まで耐えられるでしょうか。親に我慢できるでしょうか。勿論全ての腕力を否定しているのでは無いことは理解しますが、言葉による教育が全ての人に行き渡るのは難しいと思います。先生の教育方針でさえ、勉強できない子供は今はそのまま置いてけぼりのようです。これは勉強させるという強制力を否定した結果、言葉による教育をも放棄して、授業についてこられる来られないは子供次第、と言うものになってきています。子供の教育現場が別な意味で荒れています。さて警官襲撃事件の深層はどうでしょうか。誰も何も犯人像を語りませんが、犯人が最高の武器を入手しようとしたことは間違い有りません。それが自分を示す物だったかも知れません。それを手に入れ使うことが自分を表現する事だったかも知れません。