杉田議員の発言に思う

杉田議員のLGBT問題が話題になっているようです。私は余り関心がありません。周りにそういう話題が無いからです。そうはいっても少し変わった人が居ると話に上ることもありますが、馴れてしまえばかえって人気者のような感じになります。杉田議員の発言の文章を読んでいないので正確性を欠くかも知れませんが、生産性が無い、とは何を指しているのか判然としません。子供が作れない、生まれない、ということを指しているのでしょうか。経済的に見れば人間の消費にそれほどの違いがあるわけでは無いので、LGBTであれ誰であれ変わらないと思います。子供が作れないというのはその通りです。また男女の家庭でも子供が生まれない場合もあります。日本は少子高齢化が進んでいます。そうした中、子供が作れない共同体は生産性が無い、ということであろうか。人間は男子と女子で子供が出来るようになっています。それは神の摂理だと思います。遠い将来のこととして、映画などで人工的に産まれる場面もあったと思いますが、今は異性間の関係で生まれます。アメリカ映画だったと思いますが、同性の共同者が子供を引き取って育てる場面があったように思います。生みの親のいない子供の、育ての親になる映画だったように思います。これも家庭だと私は思うのです。杉田議員の発言は経済的、身体的な問題をさして生産性が無いと言っているのでは無いように思います。LGBTは都会ではある程度認知され、目立つ存在になってきているのでしょうが、田舎ではむしろ逆に作用することもあると思います。最初物珍しさはあっても、馴れれば普通の存在になるように思います。田舎に来た外国人のようなものかも知れません。都会の方が他人に無関心を装っていても、何かと気を遣い、自己主張を始め出すのでは無いでしょうか。対して狭い田舎で普通の人と違う事が分かったら恥ずかしいから、と言う理由は確かにありますが、判ってしまえば、そうですか、になってしまいます。出戻り、子連れ、最初は色々ありますが長年いれば馴れます。口うるさいのはどこにでもいますが、その内相手にしなくなります。では杉田議員は何を言いたいのか。何も知らない私の勝手な想像は、文化的な規範の模範を示しているように思われます。ときに押しつけがましく聞こえるのでは無いでしょうか。LGBTは大多数とは言えず、通常の形態状態では無い。異性間の結婚状態が普通で有り、その状態を乱すものは認められない、と言うものではないでしょうか。私など長年人間をやっていると、異性間の共同生活も大事ですが、同性間の社会生活も大事に思います。年を取ると信頼の置ける人とのコミュニケーションを大事にしたいと思うようになります。葬式の時、何処の誰とも判らない親戚が来て偉そうなことを言うのを聞くこともあります。そんな親戚よりも異性であれ同性であれ或いは無性であれ心のある人との会話のほうが楽しいものです。LGBTが人間にあることは認識しています。これがどういう過程で生まれるのかは科学的に解明されなければならないと思います。先天的にそういうものなのか、後天的なもの、精神的なものから引き起こされるものかは、厳に見極めることが大事だと思います。人は逃げ場の無い状態が続くと安易な方向に向かうものです。そうすることが時に当たり前だと思うようになります。そういう事に追随する輩が生まれ、数が集まると声をあげます。私はLGBTの人達を差別することはいけないと思います。区別することはあっても、人間としての尊厳は大事だと思います。色々な主張はあって構いませんが、さまざまな制度に対し当然の権利があるというのはどうでしょうか。個としての権利は当然あります。共同体としての権利は、LGBT以外の人達にも厳しいものが有ります。二人以上の共同体生活者の場合そういう権利を主張できるでしょうか。杉田議員の発言は言葉だけをとらえれば、そういう事は無いと思います。まずはLGBTの人達がおり、苦しんでいる環境がある、と認識することが大事なのだと思います。その上でLGBTの人達の科学的な精神的な解明が必要で有り、社会的な対応も必要であると思います。LGBTであれ誰であれ個としての主張は大事にされるべきですが、複数個になると他との軋轢が生まれます。制度の見直しに抵抗が生まれ少数派は我慢を強いられます。既成概念を変えるのは容易ではありません。個としての主張と複数としての主張には違いが生まれます。私は複数としての主張には覚悟が必要だと思います。それを持たず、ただマイノリティいじめだ、と言っても何も発展性がないと思います。批判する方も既成概念を冒涜するものである、の一点張りはどうでしょうか。昔の生活規範を懐かしむのは、昔の歌謡曲を懐かしむようなものではないでしょうか。文化というものも変わりつつあるように思います。世界の転換点に来ているように思います。