思いやりの精神1

おもてなし、思いやりの精神は日本独特のものらしい。思いつき、思い入れ、など思うに色々な語尾を付けることによって、思いの行き先が変わります。行政機関の仕事は大変なものと思いますが、残念ながら国民の方を向いたものでは今や無くなっているようです。厚労省の不正をやっています。安倍内閣は最長政権になりつつ有るようですが、公務員の不正問題質疑においても最長では無いでしょうか。国会は行政の不正問題ばかりを議論しているようにさえ思えます。小学生の子供が死にました。調査報告書を学校は拒否したのに、教育委員会がアッサリ渡してしまったのをみると、自分に被害が及ぶと思うと保身に走るようです。学校関係者、教育委員会児童相談所、公共機関は誰を見て仕事をしているのでしょうか。報道機関が虐待、いじめ問題を再三報道しているのに、この人達はどんなTV番組を見ているのだろうか。近々では、あの悲しい手紙を書いた少女の問題が有ったというのに、県が違うと自分のこととして受け止められないのだろうか。仕事量はやろうと思えば増えます。営業マンが頑張ろうとすれば残業が増えます。この位でイイヤ、と思えば早く帰れます。残業時間調整を言い訳にはして欲しくは有りませんが、仕事をただ受け渡すことのみに精通した者に成り下がっては居ないだろうか。左のものを右にやるだけで儲かる商売も有ります。回ってきた書類に印鑑を押して次に回す事のように、人の苦しみを次の人に渡すだけ、または部下に差し戻すだけのような仕事ぶりのように思います。自分の思いつきを思い入れを持って思いやると、いつしか忖度を期待するようになります。本来思いやりは自分のことはさておいて考える事と思います。今はまず自分ありきから事を考えるらしい。滅私奉公なる言葉が有りましたが、今では入私奉公のようです。NHKの組織改編が有るそうです。組織を端にスリム化するだけでは弊害があります。何か新しいことを始めるつもりで改編しないと上手くいきません。株式会社の統廃合など現状維持を目的にしたものなどは悪い状態を維持し続けるだけのようにさえ思えます。新しいものに向かう力は改変を良しとしない力を凌ぎます。何も方向を示さない改変は内向きになり、くすぶり続けるように思います。滅私奉公はなくとも献身的な行動がもう少し有っても良いと思います。親の子供に対する献身、子の親に対する献身、上司に対する、部下に対する献身、親会社の子会社に対する献身、などもう少し滅私して、献身的な行動を期待します。確かに親が、子が、上司が部下が、会社が、その期待に添わないことが続くと嫌になるものです。しかし献身とは、する本人が自覚的に行動することを前提にしていると思います。自分が、という所有を抜けだし、自分はという人格を形成するのでは無いのかと思います。献身的な行動を批判されたり、穿った目で見られると、嫌なものです。それとは真逆に、献身的な行動を何か損をする行動に思っている若者が最近増えていることを危惧します。自分の苦労が増える、増えた割に見返りが少ない、それによって割に合わないことがおこる、など自分基準を大事にする傾向が増えているように思います。自分が、が何事も第一に来るものは、教えられても教えられた事のみしか出来ず、それ以上教えようともされず、教わろうともしない。いつしか労働における仕事階級社会が出来つつあるように思います。正社員非正規など色々問題が有るとあると思いますが、社員の中に自発的非自発的な気構えのものが生まれつつあるのでは無いのかと思います。東京の中で非正規だとしても田舎の正規社員の倍近く稼いでいる人もいると思います。東京で非正規を声高に叫んでも田舎では人手が足りません。自分が、と思う者は自分に何が足りないのか今一度考えてみる必要があるのではないでしょうか。思いやりの精神は日本独特のものらしいので、グローバリズムの中で消えていくかも知れません。日本独特のものを諸外国は求めているのに、色々なものが消えつつあります。日本のガラパゴス文化を発展させつつ開花させて欲しいと思います。