YAFOOブログ終了

ヤフーブログサービスが終わるようです。何故終わるのか判りませんがもったいない気がします。経営上の理由があるのかも知れません。株式を上場してもお金、株が上がらなかったからでしょうか。よそのブログも終わりがあるのでしょうか。私にはコンピュータ関連のことはよく分かりません。想うのは、最近の家の建て方に似ているように感じます。最近家を建てた者に家の様子を尋ねました。大黒柱は玄関から見えるのか。縁側はあるのか。答えは、何ですかそれは。若者は大黒柱の存在を知りません。縁側などと言う無駄な存在を作りません。押し入れなども無駄な部分のようで、クローゼットと呼ばれているようです。生活様式が変わって、布団の存在、お客が来たときの応接間、など家の空間が昔とは大きく変わってきています。核家族にとって無駄な空間をなるべく排除しようとのことだろうと思います。家を建てるのは一大決心がいるものと思いますが、一戸建ての家がマンションのような造りに成り果てているように思います。昔の家のような存在から例えてみると、学校の各クラスにはリーダー的な存在がいました。悪さをする、頭が良い、学校の行事を進んでするなど各分野で目立つ存在がいたものです。大黒柱とは言いませんが、その者の存在は大きかったと思います。今はそのような存在をわざわざ否定するような格好を取ってはいないでしょうか。いじめ問題が有りますが、昔からいじめはあります。それがあまりエスカレートしなかったのは、互いがそれぞれの分野で優秀な部分を認めていたからでは無いのかと思います。しかし今はその一部優秀なところがかえって反発を招いているのでは無いのか、とさえ思います。いじめる者が居ればそのいじめている者に注意をするいじめっ子がいたものです。見て見ぬふりをするものは少なかったように思います。悪貨が良貨を駆逐する、ということがあります。クラスの親分肌の者をなくそうとして、誰もがドングリの背比べのようになり、そこで少しぬきんでている部分があるといじめられる。大黒柱の存在は煙たがられ、何本もの同じ様な柱を立てて家を造る構造に似てきているように思います。壁工法は決まった使い方しか出来ないようです。柱による間仕切りは用途に応じて空間を仕切ることが出来ます。縁側のように一見無駄な存在でくつろぐことも最近は出来ないようです。家がくつろぎの場になっているのでしょうか。全てが決まった役割を持った存在だらけになっていないでしょうか。子供は決まった役割をまだ持っていません。今からの存在だと思います。ブログはコンピュータシステムにとってどのような役割があるのでしょうか。私が書いているものは何の役にも立たない縁側のようなものでしょうか。有名人が書いているモノは果たして大黒柱のようでしょうか。互いが足の引っ張り合いのようなものでしょうか。家の寿命も最近は短くなって30年持てば良いようです。一生をかけて造った家が子供には無傷では譲り渡せないようです。その位の先見性しか見渡せなくなってきています。ブログが無くなるのは仕方が無いとしても、ハッキリした理由が言える辞め方であってほしいと思います。