大嘗祭に思う

秋篠宮大嘗祭に対して発言がありました。大嘗祭天皇即位後の新嘗祭を呼びます。この年の五穀豊穣と国家の安寧を喜び神との共食を意味します。宗教色が濃い儀式です。何をもって宗教的だと判断するかは難しいと私は思います。昔から続いている儀式で宗教的でないものは無いと思います。日本ばかりでは無く諸外国も勿論その傾向があります。アメリカ大統領就任式ではバイブルに手を置いて誓います。クリスマスでさえ宗教行事の一つです。収穫祭と銘打ったパレードなども基は神に感謝を示すものと思います。何度も書くようですが、宗教と政治を分離しようとすることが政教分離ではない、と思います。特定の宗派、教義に偏らず政治を行いましょう、というのが私の政教分離です。私の観点から申しますと秋篠宮は何故今さら改めておっしゃったのかよく分からない。天皇の国事行為は色々ありますが、その中でも即位儀式は簡素に質素に行いたいとの意向だろうと推察します。それでは天皇とは何でしょうか。今は国家国民の象徴ですが、おおざっぱに言えば、日本の神を奉る宮司の役目を担っては居なかったのではないでしょうか。国家の安寧を祈願し佛教に祈祷などを依頼したのでは無かったのでは無いでしょうか。その役目を負っている以上宗教的にならざるを得ないと思います。確かに行事自体が大がかりになって来つつ有ります。大昔ならそこらあたりの山々でとれた葉っぱや木々でまかない、土で土器を造ることも容易にできたでしょうが、今ではその事を再現しようとすると逆に高価なものになってしまいます。その事が良いのかどうかを提唱されたのかも知れません。22億ものお金を掛けて造ったものを、儀式が終わったら取り壊すことの意義を見いだすことは難しいのでは無いでしょうか。むかし使った葉っぱなどの器ものは紙皿、紙コップに。舘はテントに。どうでしょうか。全てを今風にすることは難しいと思いますが、費用を抑えることは大切なことのように思います。天皇家の私費で賄うようにするにはかなり大胆な変革が必要になると思います。私は天皇家という存在を少しずつ変えようとしているのでは無いのか、と思いたい。遠い将来人々が安心して暮らしていけるような世の中になったとき、天皇という存在がひとり周りから取り残されないようにゆっくり世塵に近づこうとしているのではないでしょうか。日本は豊かな国になりましたが、まだまだ引っ張り出そうとする輩はいます。天皇家が2000年続いてきたとするならば、その年月をつかってもとに戻すことも私達の役目かも知れません。