常識の国へ

幼児虐待事件がまたも報道されています。人間が動物になりつつあるようです。ライオンは群れを乗っ取ると前の雄の子供をすべて殺すそうです。自分の子供ですら幼ければただの獲物としか見ないそうで、母親はある程度大きくなるまで雄から遠ざけるようです。人間が人間たり得るのは思考するからだと思います。我思う故に我有り、は自己の認識と他己の区別、自己存在を自覚させるものだと思います。幼い子供は可愛いと想いますが、それがただの生き物のように見えてきているようです。自分が完全に支配できる動物のように見、あたかもペットのように扱い、従わなければ容赦なくいじめる。日本人はどうなって行くのでしょう。生みの親と育ての親という問題が有ります。不幸にして生みの親から離された子供が生みの親を探すという番組がありましたが、今は強制的に生みの親から離さざるを得ない場面が多くなりつつあるように感じます。育ての親は何処かしら本当の親では無いと想い、子供も何時しか自分の親では無いと感じる一時があるようです。その子供は本当の家庭を模索するように自分の存在をあらしめるよう行動するように感じます。その点アメリカ映画を見ていると育ての親は当然のごとく、子供の真の親のように振る舞い、世間的にも認められているように思います。全ての場面でそうであるかどうかは分かりませんが、少なくとも養子縁組で親子関係が成立することは当たり前である、との認識は常態化しているように思います。日本ももっと一般化していくべきかも知れません。時に母親一人での子育ては生活面での苦労が伴い、男の存在になびく向きがあると思います。その男が良ければ良いのですが、最近のように動物化している場合、虐待化してしまうのでは無いのかと思ってしまいます。一人親でも育てる事が出来るように、社会保障の面での保護が必要とも思います。人間の動物化はどうして進んできているのでしょうか。他者の存在を自己の存在意義と同じ様に認めなくなりつつあるのは何故でしょう。夏目漱石の小説に、人との付き合いが一番難しい、だから人でなしの国に行った方が良いかも知れない、しかし人でなしの国はもっと難しい、というようなことが書いてあります。今日本は人との付き合いが難しい国の状態ですが、何時しか人でなしの国になる日が来るのでは無いのかと想います。企業は本業を忘れ株式投資に一喜一憂し、幹部は常識を忘れ責任を他人の責にし、部下は向上心を忘れその日暮らし。経済状況が良い人は良い、悪い人は何時までも悪い、と言う状態が続いているように思います。良い人は傲り、悪い人は貪る。いつしかアメリカ映画で見たように貧富の格差が人としての尊厳を破壊していくように思います。日本はこのままではいけないように思います。都会という守銭奴が横行する所で生活するには武器が要ります。何の武器も持たない田舎者が住むには危険です。貪る親玉の片棒を担ぎ、老人を欺し金銭を奪うことに何の抵抗も感じなくなって、小銭を稼ぐ。自分は本来良い人といつまでも勘違いをしてしまう。今はまだ裁判官は情状酌量の恩情を下していますが、その内禁固刑を下す日も近いと思います。刑が重い国になるのも近いかも知れません。中国では麻薬類は死刑になります。江戸時代では十両で死罪だったと思います。死罪制度は非難されていますが、人でなしの国になったら、極刑制度が復活するでしょう。今のうちに当たり前の国、寛容の国、常識の国に戻して欲しいと思います。