学術会議に思う

学術会議が話題になっています。任命されなかったからと言って、学問の自由との関係を問題視するのは少し違うように思います。菅政権がどれ程官僚組織に人事権を行使するのか、を測るために公務員が仕掛けた問いにはまってしまった、ということに他ならないと私は思います。要するに、政権に組しない発言をした公務員をどう扱うのか。賛成意見、反対意見を言って、それが的確であっても降格は有るのか無いのか。内閣府の者の考え方はどういうものなのか。単なる資料作りをするだけで良いのか、意見を述べて注意喚起を行った方が良いのか。これら一連の行為を言われるがままに行うだけが良いのかどうか。公務員の踏み絵を踏まされた格好ではないでしょうか。菅さん自体が任命を拒否するほど本人を知らないと思うし、拒否した後の反響まで考慮していたかどうか怪しいものだと思います。任命されなかった人たちに問題があったかどうかは、学問的研究はもちろん、どうでも良い事だったんではないでしょうか。あえて言えば、誰かが人数減らしに内閣府の強権をわざと見せたいがために行ったのではないだろうか。学術会議は学者の国会などとのたまわっていること自体、旧態依然としているように感じます。本物の国会でさえ権力と権威にしがみつく輩がなんと多い事か。菅政権を誕生させたと勘違いしている議員の先行決断ではなかったかと想像します。なんにせよ一度下した判断を覆すこともできないだろうから、ずるずると先延ばしするしかないのかも知れません。良かったことと言えば、学術会議なるものが国民に知れたこと。学問の自由なるものがどうにでも解釈できること。学者さんたちも権威が欲しい事。菅政権では公務員の人事権は絶対であること。これから公務員は政権を見て判断するでしょう。この後始末に公務員は違う意味で一生懸命になるように思います。どういう理由を考えるのか見ものです。それにしても学問の自由とは何だろうか。学術会議なるものの組織に属せない事なのだろうか。学者さんたちは自分達の学問分野の組織を持たないのだろうか。学者さんこそ、独立の存在と思っていましたが、組織に入れる、入れないが学問の自由に影響するとは考えも及びませんでした。