日々徒然なるままに

定年に近づくとやはり年寄りの思いが湧いてきます。新しく会社に入って来る若者を見ると以前居た、居る者と似た感じがする人がいます。どこか同じような考え方、行動を見るにつけ将来像が思い描かれます。同じような成長の仕方をするのだろうと考えさせられます。それが良い方向に進めばよいのですが、途中でこのくらい出来れば良いと思い出すとそれから先は何も受け付けなくなります。もったいない気がします。では、どういう人が将来性があるのか、会社にとって有益なのか。私は小中学校のころの過ごし方が大事ではないのか、と思います。如何に仲間と過ごすのか。如何に遊び、勉強にいそしむのか。如何に日常生活を過ごすのか。如何に社会の慣習に従うのか。がその後の生き方を決めているように思います。社会に出れば仲間と呼べる人達は僅かなものです。10人の内2人は良い方、2人は悪い方、6人は無関心です。無関心はどっちにも付きます。不登校の問題が在りますが、味方の2人をも失ったと間違わないようにと思います。遊び勉強には得意、不得意分野があって当たり前です。器械体操はうまいが、ボール遊びはそれほどでもない。理科社会は良いが算数は苦手など色々ですが、授業に集中できているかどうかの問題であって、できる出来ないの問題ではない。ある日突然解りだすときがあるものです。また門前の小僧習わぬ経を読む、のように好きだと思う仕事に就いていれば、それなりの専門職になります。文科系の者が理科系の仕事をする、また逆もあります。しかしながら、仕事ができないのが返って良いような場面に最近は出会います。なまじ出来るからと色々な仕事に割り振られ、出来ないものは十年一日のような仕事をして満足しています。残念です。学校では教科以外に社会習慣を学ぶことの方がもっと大切だと思い至らせられます。使ったものを大切にする(国語)、整理整頓をする(算数)、何をどう使うのか(理科)、何も物がないときはどうする(社会)、工夫をして遊び心を加える(美術、体育)。など将来に目を覚ます要素が隠れているように思えます。少なくともこれらの基本的な事柄を理解できなくても、体験しておくことが大切だと思います。今は多くの従業員が、会社の物は自分のモノではない、どうでも良い。使った物の後の事は今度考えよう。何処に何があるのか知らなくても恥ではない。自分がしなくても誰かがやるでしょう、またそういう人を雇えばよい。いつしか知的好奇心が薄れてきている人たちが増えているように感じます。会社にとって有益な人は、営業利益を上げてくれる人であるかも知れません。会社にとって大切な人は経常利益を上げてくれる人かも知れません。掃除の仕事の仕方でも、十年一日同じようにする者もいれば、そこに創意工夫を凝らす人もいます。何事も興味を持って取り組む勇気が必要に思います。教えたくても教えられない壁があるように思います。会社を辞める時期に近づいて考えさせられる事が多くなってきています。これは今に始まった事ではなく、今までもこのような事をやってきたのだろうと思います。しかしながら、自分の事と自分以外の事を区別する傾向が強くなってきているように思います。良い意味でのお節介が自己満足で終わっているように感じるこの頃です。