LGBT最高裁判所判決に思う

LGBTQの話題が盛んな今、最高裁判所が "T”に対して判決を下しました。男性として生まれてきた人が、女性として生きていこうとする過程の問題として、一般女性用のトイレの使用を認めました。この方は病院にも通い、事業所の同意もある一定程度あったものと見受けられます。その上で特定場所のトイレの使用ではなく、一般女性用トイレの使用を求めたのだと思います。私はこの判決に対して完全には同意しかねます。1)この人は外見上も、ご自身も女性として生きていこうと努力されているものと思います。また事業所側もそのことを理解し、要望に応えようとしたものと思われます。特定の場所内での解決策であれば、特定の人たちの理解で済みますが、一般的な公共の場所での解決策では無いように感じます。この方がこの公務員事業所以外の場所で、女性用トイレを使用して何か問題が起こった時、問題提起した方に何か不都合が起きかねないように思われます。高速道路のパーキングエリア男子トイレに女性が入ってきても笑って済ませますが、果たして逆の場合どういう態度に出られるだろうか。この人の場合、トイレが遠いというのが問題なのだろうか。私としての理解が得られず、億劫がられていることが問題ではないだろうか。2)裁判所は争点となっている事のみに対して判決を言い渡すことが出来るのが原則だと思います。それ以外の事、弁護士、検察が問題にしていないことに対して余分なことを言い渡すことはなるべくしないようにしていると思います。時たま判決を言う前に、長々と裁判官が感想を述べるかのようなことがありますが、審判過程において、真理を感ずることを述べたものと思います。今回の裁判においては詳しくは分かりませんが、余りにも表面的すぎるように感じます。この判決が一般社会に及ぼす影響、会社組織、会社人事、特に女性の理解に多大の苦労が予想されます。これらの解決策のないまま個別の事案として処理したように感じます。会社施設のありようにも影響を及ぼし、これからは恐らく男子用女子用トイレの区別を無くし、工事現場用のような個別トイレを一列に並べる方式になるのではないのか、また女性専用トイレは二階以上離れた場所に、別個に特別に設ける必要性が生まれるのではないだろうか。3)国会においてLGBTQ法案が通ったことが少なからず影響していると思われますが、最高裁判所が、個別の裁判事例のような安直な判断をしたように見受けられるのは私だけだろうか。少なくとも最高裁判所が下す判例では無いように感じます。裁判官の見識がいかに一般社会とかけ離れたものになってきているのかが伺われます。韓国の裁判がいかに声高に騒ぐ民衆の声のみに傾くのかを批判する事がもはや出来ません。日本の裁判官の質がどれほど政権に寄り添うようになってきているのか見極めることがだいじになってきているように思います。米国でも民主党時代の裁判官、共和党時代の裁判官というような事が言われていますが、日本にもそういう時代が来たなという思いです。もはや日本の文化歴史に根差した、かつ世界情勢を考えた上での考察など判決には無用になってきているのではないのかと思います。音楽協会の教育現場における著作権料徴収に道を開いた判決を下すなど、私は不満です。選挙の時に行われる最高裁判官の是非についての判断をこれからは慎重に考えるべきだと重々思い至らせられました。