知識と予算

日本は将来ノーベル賞受賞が減るだろう、とノーベル賞受賞者が言っています。諸外国に比べて論文の数が少ないからです。思うに、論文の数が少ないと言うのは落ち着いて研究に打ち込める時間とお金がないと言うことかと思います。大学は増え学生も増えているのに論文が増えないのは、大学の責とも、また思えます。時間とお金が有れば論文が増えるのかと言えば、それはそれで難しいと思います。最近は企業と共同で研究開発を手がけ、資金面で応援してもらっているところも有ります。企業はやはり利益を追求しなければ成りませんから、基礎研究を繰り返すと言うより、応用研究に重きを置きます。若い人材も地味な基礎より変化のある応用の方が魅力的に思うでしょう。日本の大学では基礎研究に重きを置いていると聞いています。資金不足は何処でも同じようですが、一方不正に資金を流用しているところも有ります。大学の管理体制の不備です。会社も同じですが、自分が創った、長らく居たところは自分のものだと勘違いをします。一旦株式会社になったら、それはもう株主のものでもあるわけです。ホンダさんはその事を十分知っていたようです。大学で働く人も自分と大学との距離感を認識すればそうそう不正は起こらないと思います。日本は襖一枚で部屋を区切る家の構造です。これは居間応接間台所と自分の中に区切るという距離感を自然にはぐくんでいると思います。最近は区切るという襖、余裕を表す縁側、自立を示す犬走りがない家が多くなっています。日本人の中にこの良い意味での自分と他人のプライバシーとの距離感が薄れてきているように思います。言葉遣いなどで、ため口は親近感を持たせますが、また不快感を醸しもします。TPOを知って使う分には良いのですが、未熟なままでも構わないのですが、何の思慮もなく使うには危険が伴います。相手方がそうならとこちら側が真似すればそれは失礼だと言わんばかりになる、困ったものです。話がそれました。基礎研究は大事です。私はそれを原本に当たれと言いたい。経済学ではケインズマルクスと大昔私は習いました。しかし今ではそんな学問の原本など読む人はいないと思います。ソ連崩壊で今更マルクスでもなく、需要と供給のケインズでもない、今はそう単純ではない。とでも言われそうです。それならと何か他の原本を読んでいるのかと言えば、学生勉強風に言えば参考書を読んでいるに過ぎない。他人が解釈した便利な一覧表をあたかもそれが本物だと言わんばかりに知識をひけらかす。これは技術面でもいえることで、なまじっかの知識で、事を治めようとする。そしてそれ以上を求めようとしない。原本に当たら無いから参考書の著者よりも知識が増えない、著者が捨てたものが大事なものだったかも知れないということが分からない。確かに原本には読むのに難しい面、理解しづらい面等があるかも知れませんが原本に当たるという態度は忘れてはいけないと思います。政治家の弁に儲からない学問は予算を減らしたらどうか、という意識があるとすればそれこそがノーベル賞受賞者を減らす原因だと思います。日本は科学系の受賞者が多いですが学問は科学系だけに集中して予算を組めばレベルが上がるというものではありません。学問の総合的な関わり合いのもとレベルが上がると思います。人間はコンピューターでは有りませんから、一つのことだけに集中出来ないし、すべきでは無いと思います。色々な関わり合いの中から解放を見いだすのだろうと思います。将来ノーベル賞受賞者が出て欲しいと思いますが、総合的な学問の絡み合いの中から生まれるのではないかと思います。目に見える資金、人材確保は大事ですが科学一辺倒の人材からはどうでしょうか。よく言われることですが、むだな経験は無い、むだな知識は無い、無駄な人生はない、無駄にしているのは自分自身です。原本を解釈した他人の知識を、あたかもそれが本物だと勘違いしているふしがあります。その間に捨て去った、はしょった部分を逃しています。料理上手な人は大根の花、葉から根までを使い、使うことを知っています。